破壊せよ、とアイラーは言った


私が、18歳の時に買った本。

繰り返し、繰り返し、読んだ本。

この本を読むと、Jazzを聴かなくてはいけなくなる。

いまだ聴いたことのないJazz。

Jazzを聴くことで、何かが変わるかもしれないという期待。

ここに紹介されているJazzを聴きたいと思った。

それから、毎日、Jazzを聴き続けた。

命のすべてをぶつけるように。

大学浪人生活の2年目だった。

アルバート・アイラー「ゴースト」

ハドソン川。夜眼に黒々とあるのがそれだ。吹雪の川は胸苦しい。

その吹雪のハソソン川を見て私はアルバート・アイラーを思い出したのだった。アイラーの吹く「ゴースト」。

ニューヨークで、私は32歳だった。そのアイラーを耳にしたのは幾つだったか?18歳から23歳の、まだなにもかも新鮮で、面白くてたまらないと見える青春のとば口だった。

アイラーの曲を聴いていると、自分のそのかけがえのない5年間を思い出す。アイラーがかけがえのない時間の総和のように思え、感傷でもなんでもなく息が詰まる。

アイラーは、今、耳にすると、暗い。ただ、本当の事を、ジャズで吹いている。

昔モダンジャズ喫茶店でそのアイラーをよくリクエストしたのは、アイラーのジャズが持っているその暗い力が、その時の私の気持ちに一番似通っていたせいだったと思う。

テルオ・ナカムラ「マンハッタン・スペシャル」

テルオは、なによりもマンハッタンというところを柔らかい感性で描いてみせてくれた。

これは、何もかも新鮮で楽しく、抒情的でもあるマンハッタンだ。つまりそうやってしか、人は、死者の後を生き続けてはいけないのである。

その頃、思い出すのは、すべて否定の精神を貫徹したものが好きだった事である。読む本もそうだった。セリーヌ。サド。コルトレーンではないが、マイフェイバリットシングスの中には、何軒も古本屋を廻ってさがしてみつけたケラワックの「路上」や、ジュネの小説、「泥棒日記」や「花のノートルダム」も入っていた。だが、それらの本よりも、今になって振り返ってみるならば、耳にしたジャズの方がはるかに小説に影響をうけている。

マイルス・デビス「リラクシン」

ジャズは、人を魂という病気に陥す力を持っている。

冬のハーレムはデビスのブルースが似合う。デビスのワンテイクの「リラクシン」もハーレムに似合う。これを聴いたのは、まだ20歳になっていなかった頃だ。

マイルスの声が入ったり、レッド・ガーランドがイントロをピアノで弾くと、デビスが口笛を吹き、「ブロック・コードをくれ」と言い、また新たにレッド・ガーランドが両手で鍵盤を押さえつけるブロックを弾き出すという楽しい仲間同士の演奏が、聴く者を魅きつける。

まことにリラクシンである。

その頃、演奏されたフレーズだけでなく、マイルスの口笛、言葉まで覚えていた。マイルスのミュートのついたトランペットの甘さは、いまから考えると青春の甘さ、初々しさに思えるから不思議だ。マイルスがいてコルトレーンがここにいる。

アーチー・シェップ「ブラック・ジプシー」

その私の一枚のレコードに関する偏愛の仕方を見ると、ジャズとは単なる音楽の一ジャンルではなく、同時に文学というものや宗教、さらに言えば性や暴力や政治の根ともつながってくるのが見えてくる。

アーチー・シェップの「ブラック・ジプシー」はその架空のオペラたるニューヨークから生まれ出たジャズだと言うべきである。

そのモダンジャズ喫茶店に集まる連中が、世の中の軌道から外れた者ばかりだったからか、この「ブラック・ジプシー」はよくリクエストされてかかっていた。この曲を聴き、音のズレたようなトランペットを耳にしていると、その店で昼下がり、いつの間にか集まってきた常連でオイチョカブをやり始める光景を思い出す。ジプシーは他の誰でもなく自分なのだった。

ジョン・コルトレーン「クルセ・ママ」

それは気質としか言いようがない。そのような気質を持っている事と遊ぶ気質とが、どちらがいいというものでもない。熱しのめり込む気質が時に硬直におち入る危険があるなら、遊ぶ気質は弛緩しやすい。硬直しない熱狂、弛緩しない遊び、考えてみれば至難の技である。それに二つとも共に他を排除しやすい。たとえばここに、熱狂型の雄たるジョン・コルトレーンを引き入れて考えてみる。ジャズを聴いていた最初から最後までこのコルトレーンの熱狂にのめり込んだ者から言うと、コルトレーンのような熱いフリージャズでなければジャズではない、という排除の思考起こってくるのである。

娯楽から一歩踏み出したモダンジャズであるなら、音とは何か、フレーズとは何か問いつめて欲しい、と文句とつける気持ちが動く。それがコルトレーン経験というものである。

コルトレーンはジャズの巨星であり、ジャズというジャンルを飛び越えて聴く者をわしづかみにし、ゆさぶり、破壊する。

エルビン・ジョーンズ「ヘヴィ・サウンズ」

私があの頃、毎日毎日顔を出し、遊ぶという意識もなしに日を送っていた「ジャズ・ビレッジ」。ここに書くのもはばかられるような連中のことごとく、非行少年、不良少年、予備校の脱落組が集まっていたし、考えられる限りのマイノリティが集まっていた。ただどのマイノリティに属する人間も、当然の事だが、大手振っていた。

かかっていたのが、このエルビン・ジョーンズ「ヘヴィ・サウンズ」である。モダンジャズにも他ジャンル同様に傑作という言葉が使えるなら、これはそうである。

自分で本を乱読し、好きなものを丁寧に読み込み、同時代の学生たちの「知」のレヴェルに拮抗しなければならないという自覚はあった。それに20歳前後、誰でもそうだろうが、まもなく自分は死ぬ、というせっぱつまった、時間にせきたてられるような感じがついてまわっている。

破壊せよ。何もかもためらう事なく破壊せよ。革命とはコードの破壊、法・制度の破壊の中にしかない。そのアイラーの毒の声は、デビスを聴く私の耳元にあり、エルヴィン・ジョーンズのドラムの間から耳に届く。

セロニアス・モンク「サムシング・イン・ブル」

これも確かランボーの詩句だった。「18歳、堅気でばかりはいられませぬ」
ランボーは不思議な詩人である。

ランボーの詩の輝き、詩の断念、沈黙を、コルトレーンやアイラーのコードとの闘いと絡める事が出来る。

Je est un autre.私は他者であるとは、つまり私は言葉である、という事である。

セロニアス・モンクを聴いて思い出したのは、私のランボーの読書体験だった。モンクの演奏がランボーの詩句を思い起こさせるというのではなく、一等しょっぱなにジャズを耳にしたのがモンク、しょっぱなに詩を読んだのがランボーという符合による。共に私には新世界への入り口だったと言える。

年若い読者がジャズをセロニアス・モンクから、詩をアルチュール・ランボーから聴いたり読んだりするのは勧めたくない。毒がある。眼が腐り、耳がポロリととれる。

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