意味がなければスイングはない

村上春樹の音楽エッセイが好きなんだな~。

村上春樹の小説もそのほとんどは読んでいるんだけれども、

やはり、しょせん、私にはわからない。

けれども、音楽エッセイを読むと、「そうなんだよな~!」

「やっぽり、そう思う?ハルキさん」なんて、共感してしまう、文章にでくわすんです。

それで、また、村上春樹の「意味がなければスイングはない」の音源をたどって、紹介してみます。

村上春樹のエッセイを切り取りながら。

シューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」D850
ソフトな混沌の今日性

でもあるときシューベルトの伝記を読んでみて、ようやく謎が解けた。実は簡単な話で、シューベルトはピアノ・ソナタを書くとき、頭のなかにどのような場所も設定していなかったのだ。彼はただ単純に「そういうのが書きたかったから」書いたのだ。お金のためでもないし、名誉のためでもない。頭にうかんでくる楽想を、彼はただそのままに楽譜に写していっただけのことなのだ。もし自分の書いた音楽にみんなが退屈したとしても、とくにその価値を認めてもらえなかったとしても、その結果生活に困窮したとしても、それはシューベルトにとっては二義的な問題に過ぎなかった。彼は心に溜まってくるものを、ただ自然に、個人的な柄杓で汲み出していただけなのだ。

スピーカーの前に座り、目を閉じて音楽を聴いていると、そこにある世界の内側に向かって自然に、個人的に、足を踏み入れていくことができる。

僕がそういうタイプの音楽を愛好するようになったのは、時代の要因もあるだろうし、また、年齢的な要因もあるだろう。年齢的なことを言えば、僕は、これもあらゆる芸術の領域において、より「ゆるく、シンプルな意味で難解な」テキストを求める傾向にあるかもしれない。いずれにせよ、シューベルトのピアノ・ソナタが22曲もこの世界に存在shびているという事実は、ここのところの僕にとっては、ひとつの確実なる喜びとなっている。

「だが今思い切って、きいてみて、はじめて気がついた。これは恐ろしいほど、心の中からほとばしり出る「精神的な力」がそのまま音楽になったような曲なのである」
吉田秀和氏のこれを読んで、僕としてはさらに深く頷いてしまうことになる。心の中からほとばしり出る「精神的な力」がそのまま音楽になったような曲ーーーまさにそのとおりだ。そこには、奥深い精神の率直なほとばしりがある。そのほとばしりが、作者にもうまく統御できないまま、パイプの漏水のようにあちこちで勝手に噴出し、ソナタというシステムの統合性を崩してしまっているわけだ。結局のところ、この作品には、僕がシューベルトのピアノ・ソナタに惹きつけられる理由が、もっとも純粋なかたちで凝縮されているような気がするのだ。

*村上春樹はこの後、レコードの聞き比べをするわけですが、この曲の聴きどころについては、何も書いていません。私は第二楽章の42小節目から始まる「歌」にまいってしまったわけです。

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